夜になってもなかなか30度から下がりません。
毎日「暑い」としかしゃっべていないような気がします。
東京、STAGE銀座での展示も迫ってきました。
作家A、B共々汗を噴き拭き準備に追われています。
やはり涼しい方が作業ははかどりますね。涼風が待ち遠しいです。
化粧掻落花火文ビアカップと団扇豆皿
130号F
第5回 露木恵子個展 シリーズー雲に乗ってー
院展に出品されていた日本画家露木恵子さんは、「作家の社会性」を行動で実体験され続けています。文化と福祉の結びつきを深く考えておられ、病院や福祉施設へ自作の絵画を寄贈されてきました。その寄贈先は70近くになるそうです。作品は(雲とか朝焼けとか)優しい自然が中心です。お人柄も作品に通じるものが漂ってくるのですが、時折、職人的粋さと云うものがちらつくときがあり、親しみを増します。それは、私の恩師である名著「工芸概論」などの著者、前田泰次先生が父上であること、お祖父様が横山大観時代の金工科鋳物教官、田中清次先生であったと云う環境が個性となっているように思います。
私の個展には「登り窯の子供達」の人形創りの時代から訪ねて下さっていて、干支の丑年(前田先生の干支)あたりから作品の香合に「ウチにくるかね。」と声をかけながら毎年求めていただいています。
「三次本通りギャラリー まるて」は
本通り角にある古い薬屋さんをギャラ
リ-にしたものです。オーナーの小田
さんご夫妻とは、作家Aが1999年
三次のベッケンビール会館で個展をし
2009年、オープン間もないギャラ
リーで作家Aの個展を催させていただ
きました。昔の商家の造りは独特で、
数多い個展をこなしてきた作家Aの会
場の中でもちょっと変わった雰囲気に
なったと思います。 スタッフとして
同行した私には、いつも手を大きく振
って見送りして下さるオーナー夫人の
貴美子さんの姿が巴橋と一緒に三次の
風景となっています。
「三次本通りギャラリー まるて」
〒728-0021 三次市三次町1495-1
℡0824-63-9349
数年ぶりに作家A共々祖父母の墓参りに広島県三次市に行って参りました。
今年は三次を経由する尾道~松江の「山なみ街道」が開通しましたが、今まで通りのバスルートで行きました。
大島からしまなみ海道を渡り、
広島バスセンターで乗り換えです。
慌ただしい日帰り旅行ですが、せっかくの広島、バスセンター界隈でしばしおのぼりさんとなり喧噪を楽しんでから三次に向かいます。
往復で八時間近くかかる道。同じ山道でも大島や松山ではくるくる回る道ですが、山陽道の高速道路は延々とまっすぐです。
馬洗川、
太田川、
「七つの川」と言われるように大きな川が多いです。(馬洗川は「七つ」に含まれないそうです。)三次市も町村合併以後変わっているようですが、巴橋の先の祖父母のいた町はほっこり懐かしい様相で佇んでいました。
残念ながら合歓の木をはじめ、夾竹桃、百日紅、槿と道中の花々を高速バスから撮ることができませんでした。ようやく「ひろしま美術館」の庭先で白の夾竹桃を捉えた次第です。夾竹桃は広島の夏を象徴する記憶の花ですね。
新関公子さんが杉本公子さんだった頃、私達二人は芸術学科八名のうち、二人の女子学生だったので、よく行動を共にしていました。人間国宝になった三浦小平二さんが部長だった芸大の陶芸クラブにも二人で入ったものです。作家Aの作陶展の案内状が遅れた時など、届くのが遅かったから見にいけなっかたと不満を便りにしてくる新関さんは私の作品に最も厳しい人で、どの展示の時も容赦ありません。その彼女、一昨年優れた芸術評論に贈られる第22回吉田秀和賞を受けました。「ゴッホ 契の兄弟 フィンセントとテナ・ファン・ゴッホ」。芸術学科同級生の多くが大学教授になり今や退官しましたが、私の東京展をみに来てくれるのは彼女だけです。私の作品に対する厳しい評は、私を若い頃の自分にふとよみがえらせる力があります。「お互いもう少々がんばりましょう。」の言葉も添えてありますから。
教官室で使ってくれていたという粉引手草文碗
昨年11月の銀座ギャラリーハウスの作陶展で、新宿銀花から始めた個展は30回になりました。長い間支えて下さった皆さんのおかげですが、芸大時代の先輩後輩で毎回観に来てくれる人達がいます。その一人だった伊藤廣利さんは15回続けた京橋、クボタギャラリーの途中あたりで、芸大教授のまま亡くなりました。展示をみてくれる友のほとんどが大学教授を退官後も作品を発表し活躍していることを思うと本当に惜しまれて余りある人です。伊藤さんは個展会場に重い撮影道具持参で来られ、何時も作品を撮っていました。同期ではありましたが、技術を超えたあたたかいユーモアを表現できるセンスのある方で私は工芸の師のように敬意をもっていました。広島で作陶展をした折、依頼した文章のDMに「野の花」と云う箇所がありました。日展で活躍なさっていた伊藤さんならではの手向けの言葉だったでしょうか。