薪の窯④

我窯の薪窯では、「さや」を使用しませんので全体的に還元炎をうけます。それは主として棚組の前列部分で、後方には還元炎がかかりながらも酸化炎のように、やわらかい炎になっていきます。作家Aは主に器物は、練り込み技法と化粧掛けを使用。棚組の後方列に並べる食器類のダメージを少なくする為、窯詰めは、前列に壺であったり象、魚、椅子等大きさのあるシリーズ物を配列します。

「魚の筥」32㎝×17㎝×高さ20㎝

 

薪の窯③

窯の入口は1の間、高さ130㎝、2の間、3の間140㎝と人の出入りに不自由はありません。その為に創る大きさにあまり拘泥する必要がなく、子供達の大きさも、たかさ70センチから80㎝のものを窯焚きの度二、三体いれました。

(左)「古き都の媛皇子」44㎝×40㎝×高さ73㎝

薪の窯②

三室半の窯では、焼成が、ゆきわたる場所と甘い焼成に終わる場所とができます。朝倉窯では三の間、大島窯では一の間後方、そこが子供達の像誕生の場所となりました。薪の窯特有の素朴な焼き上がりから、題材は自然にそったものでした。作り手としては自己感情に無理を強いることなく子供達は土ものらしい優しい表現になりました。

「花守」13㎝×5㎝×高さ28㎝

 

 

 

薪の窯➀

我窯の薪の窯は、1969年、当時の朝倉村に築窯したガス窯にあきたらず1974年、奈良の赤膚焼窯を築窯された駒井さんにお願いした3室半の登り窯から始めました。当初は展示会に合わせて、一年に4度も焼成したものです。山内達雄が2002年に肺がんの為、亡くなってからは、作家Bとその都度2人の若者と4人で年に1度、毎年、焼成を続けてきました。窯出し展はその成果です。

日焼け

先日の登り窯の窯焚きでのこと、作家Bは火に近づき過ぎていたらしく顔が真っ赤になりました。昔、手伝いにきてくれたk君が、炎に魅せられ焚口近くに座り続けて顔を赤くしていたことを思い出しました。窯焚き終了後しばらくで、作家Bは鼻の皮がむけました。夏を前に日焼けです。

「元気」

しだれ柳の若葉が揺れています。この時期、我窯は登り窯の窯詰めに追われている最中です。体力仕事ですから弱音が出ることもあります。そんな折、Mさんの92才のお父上様は身体を鍛えて杖を使うこともなく、問題があるとネットで知識を得て対処されていると聞き、頑張る元気を頂きました。

 

「花信風」

作品にサインをいれることは当然ですが、これまで作家Aは呑気に失念することが多々ありました。この未発表の壺は、それではいけないと年号までも記入し始めた記念のものです。

花咲く知らせを届ける風の頃に。

 

「花信風」約25㎝×約25㎝×高さ51㎝