昨日、蕾だった泰山木の花、雨に濡れて「あっつ」という間に咲きました。
投稿者: ohshimagama
「偶さか(たまさか)」
作家Bはこの秋9月、東京で日本画グループ「偶ーたまさか―展」に参加します。「偶さか」とは思いがけず出会うことです。昨日のこと、以前作家Aが10年程、属していたボランティア団体で出会った女性が窯を訪ねてくれました。二女の母となったMさん。私との出会いで陶芸が身近なものになったことを話してくれました。自分にとって時間の経過の一部に過ぎない当時でしたが、偶さかの出会いが新鮮な活力を甦えらせてくれました。
薪の窯④
我窯の薪窯では、「さや」を使用しませんので全体的に還元炎をうけます。それは主として棚組の前列部分で、後方には還元炎がかかりながらも酸化炎のように、やわらかい炎になっていきます。作家Aは主に器物は、練り込み技法と化粧掛けを使用。棚組の後方列に並べる食器類のダメージを少なくする為、窯詰めは、前列に壺であったり象、魚、椅子等大きさのあるシリーズ物を配列します。
薪の窯③
窯の入口は1の間、高さ130㎝、2の間、3の間140㎝と人の出入りに不自由はありません。その為に創る大きさにあまり拘泥する必要がなく、子供達の大きさも、たかさ70センチから80㎝のものを窯焚きの度二、三体いれました。
薪の窯②
三室半の窯では、焼成が、ゆきわたる場所と甘い焼成に終わる場所とができます。朝倉窯では三の間、大島窯では一の間後方、そこが子供達の像誕生の場所となりました。薪の窯特有の素朴な焼き上がりから、題材は自然にそったものでした。作り手としては自己感情に無理を強いることなく子供達は土ものらしい優しい表現になりました。
薪の窯➀
我窯の薪の窯は、1969年、当時の朝倉村に築窯したガス窯にあきたらず1974年、奈良の赤膚焼窯を築窯された駒井さんにお願いした3室半の登り窯から始めました。当初は展示会に合わせて、一年に4度も焼成したものです。山内達雄が2002年に肺がんの為、亡くなってからは、作家Bとその都度2人の若者と4人で年に1度、毎年、焼成を続けてきました。窯出し展はその成果です。
新聞記事
今回窯出し展の初日、愛媛新聞しまなみ局の支局長さんが記事をとりにみえました。写真撮影の際、「作品を持って」と指示を受け、作家A、B、何も考えず近くの地味な作品を手にしてしまいました。本来は代表作か自分の作品傾向を示すものにすべきところです。作家Aは新作を、作家Bは金彩の作品で撮っていただきたかったのですが、気がまわらず後になって残念がっています。
登り窯の窯焚き
今年の三日間の窯焚きが無事終了しました。この間、一番心配なのが天候です。登り窯なので、雨の日は幸運で、やっかいなのが風の強い日です。此の度は無風で嬉しいことでした。
ジンジャーの花が咲き始めて
沖縄の梅雨入りを聞きながら、本庄山に続く雨音に早く晴天をと願っているところです。
登り窯の窯詰めは最後の素焼きを待ちかねています。
未来へのメッセージ
このところイチローのことも気懸りですが、5月5日深夜、映画好きの作家A、Bは映画監督大林宣彦氏の「最後の講義」のテレビ放映をみました。ゆるキャラにならない努力をおしまず今を生きたいと思います。