春蘭

この季節、春蘭は本庄の山で時折見かける花です。春蘭の種類は日本産、台湾産、中国産、各々多種多様です。本庄の山で目にする春蘭は野生のせいか土壌のせいか色彩が薄く珍しく幽玄をさそう花色です。

 

 

 

 

襖絵④

2013年にの秋に襖絵のお話をいただき、描き上げたのは2014年の六月です。

本画に入るまではスケッチ、資料集め、画材のテスト、そして本画と同寸大の紙で一度大下図を描き、構図の修正などの準備をしました。襖絵本体は四月に吉祥寺から我が家に運び込まれました。まず春・秋の四枚をかき一か月後に次ぎの秋・冬の襖と交換して制作しました。

制作中に感じた鳥のこ紙に墨が染み込んでいく感覚は今でも鮮明です。大画面に墨で大きく描くのは気持ちのよいものです。しかし墨を安易に扱うと却って下品になり難しさも感じました。陶芸もそうですが素材は大切な要素です。素材の質感を引き出す、理解するというのは私には欠けている点だったと思います。自分の絵を見るといつも反省ばかりですが、襖絵の制作は貴重な経験でした。

 

 

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「石槌山の四季」ー冬ー

襖絵③

 

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それまで私が描いていた絵は人物画です。顔などは絵具を重ねては拭いを繰り返し彫刻家が土を捏ねるようなイメージで描いていました。「伝統の踏襲ではない新しい日本画を描く」というのが学生の頃から年頭にあり,吉祥寺から襖絵のお話をいただいた時は、キャンパス地を試していました。

 

 

そういう状態だったので襖絵にそのまま自分が試していることを使う訳にはいかず、墨や胡粉ももう一度勉強し直すつもりで取り掛かりました。一番楽しいのは構図を練る作業です。四季のテーマですが部屋は三部屋です。変化のある秋を中心にしたかったので、結局夏を端よりました。左右の最初は満開の桜とその奥に見える石槌山で始まります。襖を開けるとこちらを見下ろすような石槌、赤い紅葉がちらほらと浮かび、振り返るとそこにももみじ。最後の部屋は雪の天狗岳で霊山としての石槌を表現しようと思いました。

 

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「石槌山の四季」ー秋(部分)ー

襖絵②

「四国八十八ヵ所第63番札所 吉祥寺」はJR伊予氷見駅を降りて数分の所にあります。私が依頼された襖絵は吉祥寺の檀家の方などが使う三部屋を仕切る二間半に四枚の襖、二組でした。元々制作するはずだった作家の方が他界されて、無地のままでいたところに声をかけて下さいました。私は襖絵を描いたことはありませんでしたが「勉強させて下さい。」と飛びつきました。日本画を描いている者だったら皆さん同じだと思うのですが襖絵のような大きな空間を作る仕事は願っても出来ない経験です。

住職からの要望は「テーマは石槌山の四季」、「最初の部屋の襖絵は圧迫感のない構図」という二点でした。

 

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「石鎚の四季」“春”部分

襖絵①

私こと作家Bは武蔵野美術大学で日本画を専攻しました。

卒業後も創画会に出品したり制作を続けていました。父が癌になり実家に戻ってからは陶芸と日本画制作の二足の草鞋を履くことになりました。所属していた創画会で初めて春季賞をいただいた時には闘病中の父が喜んでくれました。その数か月後に他界しましたので、少し親孝行めいたことができたような気がしています。

その後も陶芸と日本画の両立を続けていました。別の仕事をしながら制作を続けるのはらくではありません。けれどそれは当然のことと創り続けている人達が山ほどいる世界です。なんとか続けているそんな頃、作家Aが西条市の吉祥寺の位牌堂の扉の修復に伴うレリーフを制作しました。建築家、矢野真一郎さんの依頼です。登り窯の火を潜った30枚の陶板は祈りの建物の趣旨としっくりした仕上がりになっていました。

そして思いがけないことでしたが、私は住職から襖絵の制作を依頼されました。

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 吉祥寺 位牌堂扉のレリーフ

 

 

女子部

s-DSCN3722いちこ(右)と乙女(左)、我が家の女子です。

いちこは警戒心の強いサバイバル猫、乙女は天真爛漫なチャレンジャー、実に猫らしいこの二匹。女子に比べると男子の玉はおっとりしてみえます。

ごはんが物足りないと玉は「フンガッ」と不満気に皿を回し始めますが、女子は「了解。」とばかりに外に出かけ自活します。山の中の環境のせいなのか、二匹が名ハンターなのかわかりませんが、よくネズミや小鳥を仕留めてきます。翼のある鳥をどう捕まえるのか、未だに不思議です。先代猫のアーニーがいた時はヤモリ一族が家の中で我が世の春を謳歌していましたが、今の子達になってからはあっという間に引っ越ししました。ヤモリの頭を咥えて走ってきたり、消化不良で吐いた中にホラーな物体が見えたり、こちらが「ヒエーッ!」となることもしばしばです。

可愛い顔してワイルド、我が家の女子です。

 

俯瞰図⑤

 

現在の都庁ができて閉鎖した新宿銀花ギャラリーでは毎年六回作陶展を催しました。

なかでも東京で初めてとなった昭和58年9月の作陶展は台風シーズンで、初日はどしゃぶりの大雨でした。来る人はいないと思われる不運な日、猪熊弦一郎先生ご夫妻が「いい会場じゃない。」と言いながら来場されました。

丸亀市の猪熊美術館でお会いした時には「お寿司をとるからおいでよ。」と誘っていただきました。残念ながらやきものや生活で精一杯の私はお訪ねすることが出来ませんでした。

猪熊先生からは父の持っていた明るく気さくな雰囲気が重なってみえました。

 

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新宿銀花ギャラリーでの作陶展の案内状

 

俯瞰図④

 

私が東京芸大に入学したこともあり当時芸大教授だった小磯先生にはいろいろな思い出があります。

古い記憶では我が家に滞在中の先生から「肖像画を描いてあげよう。」と言われ小学生だった私は恥ずかしくて逃げだしたのでした。結局、水彩の母の肖像画だけが残ることになりました。

このことを話すと作家Bは「もったいないことをして。。。」と言います。

 

 

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リトグラフ・小磯良平

俯瞰図③

 

父には3人の恩師と呼ぶ人達がいました。

その中の猪熊先生に当初師事していましたが、先生は東京在住だったので、三次から距離の近い神戸の小磯良平先生に師事しました。それは終生変わりませんでした。

 

 

s-RSCN3984 昭和12年頃 国鉄機関士の服装をした四人、

右から中西利雄、太田忠、猪熊弦一郎、小磯良平