先日まで、ゆりのむかごは黒真珠の連のように、可憐な造形で、どんな花入れにも生けられました。一度ゆっくり撮りたいと思っていたのですが、梅雨の大雨で大半が地にこぼれてしまいました。あっという間のことで残念です。
先日まで、ゆりのむかごは黒真珠の連のように、可憐な造形で、どんな花入れにも生けられました。一度ゆっくり撮りたいと思っていたのですが、梅雨の大雨で大半が地にこぼれてしまいました。あっという間のことで残念です。
展示会の10日間が過ぎると木々はその分成長していました。展示室前の満月蠟梅は、こんなに可愛らしい実をつけていました。
展示会中の後日談ですが、山中、看板をたどって窯元を捜してきたお客様の、「がんこなおじさんが焚いているのだろうと話しながらきたのですよ。」との話を耳にしました。私は「がんこなおばさんですよ。」と小声で言ってしまいました。登り窯の火は皆の協力で続いてきたのだと、恵まれていた環境に改めて感謝の気持ちを深くしました。
此の度の展示には、登り窯から生まれた子供達もいます。今まで通りの焼成位置での作品と低温で焼成した今年の新しい作風のものがあります。優しさや、くつろぎが伝わればいいのですが。
Fさんに手伝ってもらって看板をつけてまわりました。
山道の入口は二か所あります。
①南インターをおりて317号線(吉海支所、亀山バス停など)から農道に入る口
②海沿いの通り(バラ公園、あいえす造船所など)から農道に入る口
窯元前の山道への入り口
無事のお着きをお待ちしています。
窯開けは焼成時間分冷却して開けます。窯出し展が控えているので、開けると直ぐに山盛りの雑用が始まります。追いまわされるこの状態を想定すると、いつも窯開けはのびのびになっています。
作家Aは、山内達雄の追い回しをしながら、登り窯築窯当初から窯詰めをしてきました。その為に窯の中の火まわりの限定された場所に、自分の作品の場を見つけました。当初、道祖神のような庶民的祈る対象を形として求めていましたので、登り窯でないと表現出来ない子供達がうまれました。山内達雄は平成14年に亡くなりましたが、作家Bの助力を得ながら大島窯は登り窯を続けています。現在、作家Bは電気窯で金彩手の個性的な作風をつくりつつありますので、登り窯の特性はより限られていくでしょう。
山内達雄は、色絵磁器、金襴手など独創的作風で人間国宝であった加藤土師萌先生に師事しました。独立する時、自分の環境に身近だった茶陶を選びました。その為、赤膚焼の窯職人さんに依頼して越智郡朝倉村に登り窯を築きました。1974年~1994年のことです。その後1994年吉海町本庄に朝倉窯時代と同型の現在の窯を築きました。
登り窯の窯焚きは消防署に届け出を出すところから始めます。窯焚き中の気象情報は最大の関心事です。天気予報を神経質に確認することになります。此の度は10日正午から始めましたが、初日は雨でした。11日雨、12日無風の晴れで最後まで風を案ずることなく、焼成できたのでほっとしています。窯は外部に火が移る構造ではないのですが、周囲の草刈と木々の伐採は可能なところ気配りし、窯焚き後は水まきをします。焼成中は大きな煙が出るので、人家から遠く離れた場所とはいえ気を使うところです。
登り窯の窯詰めもあと一歩というところです。
池のほとりの湿地帯に植えたえびね蘭が咲いていることにやっと気付きました、
今年はかわいい黄色い花が混ざっていました。
たけのこの季節も終わりに近づきました。山の中に暮らしながら今年は食べ損ねたと思っている時、取りだちのたけのこをひょいといただきました。甘みのある新鮮な味覚は春の贅沢です。ありがたいおくりものでした。