東京展での同窓の人達②

 

 新関公子さんが杉本公子さんだった頃、私達二人は芸術学科八名のうち、二人の女子学生だったので、よく行動を共にしていました。人間国宝になった三浦小平二さんが部長だった芸大の陶芸クラブにも二人で入ったものです。作家Aの作陶展の案内状が遅れた時など、届くのが遅かったから見にいけなっかたと不満を便りにしてくる新関さんは私の作品に最も厳しい人で、どの展示の時も容赦ありません。その彼女、一昨年優れた芸術評論に贈られる第22回吉田秀和賞を受けました。「ゴッホ 契の兄弟 フィンセントとテナ・ファン・ゴッホ」。芸術学科同級生の多くが大学教授になり今や退官しましたが、私の東京展をみに来てくれるのは彼女だけです。私の作品に対する厳しい評は、私を若い頃の自分にふとよみがえらせる力があります。「お互いもう少々がんばりましょう。」の言葉も添えてありますから。 

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教官室で使ってくれていたという粉引手草文碗

 

 

東京展での同窓の人達①

昨年11月の銀座ギャラリーハウスの作陶展で、新宿銀花から始めた個展は30回になりました。長い間支えて下さった皆さんのおかげですが、芸大時代の先輩後輩で毎回観に来てくれる人達がいます。その一人だった伊藤廣利さんは15回続けた京橋、クボタギャラリーの途中あたりで、芸大教授のまま亡くなりました。展示をみてくれる友のほとんどが大学教授を退官後も作品を発表し活躍していることを思うと本当に惜しまれて余りある人です。伊藤さんは個展会場に重い撮影道具持参で来られ、何時も作品を撮っていました。同期ではありましたが、技術を超えたあたたかいユーモアを表現できるセンスのある方で私は工芸の師のように敬意をもっていました。広島で作陶展をした折、依頼した文章のDMに「野の花」と云う箇所がありました。日展で活躍なさっていた伊藤さんならではの手向けの言葉だったでしょうか。

 

 s-DSCN5003預かっている伊藤さんの鍛金作品

 

俯瞰図⑤

 

現在の都庁ができて閉鎖した新宿銀花ギャラリーでは毎年六回作陶展を催しました。

なかでも東京で初めてとなった昭和58年9月の作陶展は台風シーズンで、初日はどしゃぶりの大雨でした。来る人はいないと思われる不運な日、猪熊弦一郎先生ご夫妻が「いい会場じゃない。」と言いながら来場されました。

丸亀市の猪熊美術館でお会いした時には「お寿司をとるからおいでよ。」と誘っていただきました。残念ながらやきものや生活で精一杯の私はお訪ねすることが出来ませんでした。

猪熊先生からは父の持っていた明るく気さくな雰囲気が重なってみえました。

 

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新宿銀花ギャラリーでの作陶展の案内状

 

俯瞰図④

 

私が東京芸大に入学したこともあり当時芸大教授だった小磯先生にはいろいろな思い出があります。

古い記憶では我が家に滞在中の先生から「肖像画を描いてあげよう。」と言われ小学生だった私は恥ずかしくて逃げだしたのでした。結局、水彩の母の肖像画だけが残ることになりました。

このことを話すと作家Bは「もったいないことをして。。。」と言います。

 

 

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リトグラフ・小磯良平

俯瞰図③

 

父には3人の恩師と呼ぶ人達がいました。

その中の猪熊先生に当初師事していましたが、先生は東京在住だったので、三次から距離の近い神戸の小磯良平先生に師事しました。それは終生変わりませんでした。

 

 

s-RSCN3984 昭和12年頃 国鉄機関士の服装をした四人、

右から中西利雄、太田忠、猪熊弦一郎、小磯良平

俯瞰図②

 

私(作家A)の父は機関車がとても好きで、国鉄の機関士になり、蒸気機関車SL C5834を運転していました。

しかし汽車と同じ位、それ以上かな、絵を描くことが本当に好きな人でした。私は美術大学に入りましたが、父ほど絵が好きな人を知らない気がしています。私自身は絵をそっけない思いで芸術学科を選びました。父は新制作協会で何度か受賞し、松山の小茂田守介さんと同時期、新制作協会油絵部の会員に選ばれました。44才でした。機関車から見た雪の風景の俯瞰図がテーマで「雪の忠さん」と呼ばれました。

 

 

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画・太田忠

展示を終えて

 

島の山中での模索ばかりの制作生活で、無条件に支えとなって頂いてきた

Sさんともお会い出来ました。暖かい眼、此の度も嬉しかったです。

 

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CHUCHUの会場で「新作ね。」と

求められた作品、[花野]

 

 

 

 

 

 

 

展示会が終わり、島での生活が始まりました。

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